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2004.9.20

 東京の明治神宮の森にそびえ立つ日本青年館の中に、日本青年団連絡協議会の事務所があります。その一角に、田沢義鋪記念館があって、今日も青年活動の拠点となっています。
 私の精神的バックボーンである、この田沢義鋪(以下田沢という)という人物は、何をした人で、どのような人であったかをまず説明したいと思います。

 田沢は、明治18年、九州は佐賀県の郷士の生まれで、第5高等学校(現熊本高校)に進んでから、東京帝国大学(現東京大学)卒業後、内務省の役人になった。

 25才で静岡県安倍郡(現在の静岡市)の郡長となり、大先輩の村長たちと郡政を執行するかたわら、青年団と友好を深め、キャンプや講習会など、日本最初の青年教育を始めた。その後、大日本青年団を組織する指導者となった。

 明治天皇が崩御され、明治神宮を造営するにあたり内務省に呼び戻され、造営の責任者を任命された。
 明治神宮の森は、田沢の発案によって、各地区の青年団が大八車で、全国津々浦々から運んだ郷土の名木が大樹に育って、神聖な杜となったのであった。

 当時、皇太子であった昭和天皇は大そう喜ばれ、皇居前で御礼のお言葉を賜り、当時のお金で10万円を青年団に下さった。
 田沢らはこの基金で一人一円運動を起こして、大正14年、立派な日本青年館が神宮の森の中に建ち、青年団の館が完成したのです。
 田沢は、日本青年団並びに日本青年館の理事長などを歴任し、友人で同志の後藤文夫(後の文部大臣)らと日本の青年団運動を指導しました。

 また、関東大震災後の東京市の復興の為に助役に就任して活躍したり、昭和5年には
天皇陛下に「青年団について」ご進講を行っています。

 田沢の弟分に下村湖人がいますが、田沢と下村は共同で社会教育機関紙(新政)を発刊して、公民教育の普及に努めました。
 下村湖人の書いた『次郎物語』の小説は、田沢をモデルにしたものであります。

 また、日本最初の労働運動に取り組み、大正11年(1922)にジュネーブで行われた第4回国際労働会議に出席しています。
 ただ、これだけの実績と功績がありながら、歴史上の人物として余り知られていないのはどうしてだろうか。

 それは、田沢は「道の国・日本」の道義を重んずると共に、人類愛・人間愛の平和主義者で、戦争に徹底して反対したため軍部からにらまれ、歴史上から抹殺されたのではないかと言われています。

 昭和19年(1944)3月、四国での講演先で日本の現状を憂い、講演中に脳出血で倒れ、その後静養するも、9月に逝去しました(享年59才)。

 私は、現在の日本の社会で最も深刻な問題のひとつとして、日本人の資質・レベルが低下していることが最も憂うべきであるのでは?と考えています。
 ただ単に、教育の問題だ!として片付けるのではなく、日本人としての誇り、道徳心・公立心を復活させたいと思いますし、また、多くの良識ある人々の中には願っている方もいるのではと信じています。

 このため、「田沢義鋪に学べ!」を合言葉に、このような人物がいたこと、また実践した内容を、もっと広く伝えていき、顕彰して、田沢を鏡として自らを写していくことこそ大切なのではと考え、「静岡県田沢よしはる会」を結成し、田沢精神の研究を行いたいと考えています。

 この田沢精神には、「青年団は苗床であれ」、「一人一研究」、「平凡な道を非凡に歩め」、「白鳥芦花に入る」等々、多くの言葉を残し、大地と水と空気の大自然の摂理を重んずると共に、精神(心)と経済(自立)のバランスを説く、二宮尊徳翁の「報徳精神」に合致し通ずるものでもあると思っています。

 同志の皆さん、「静かな世直し運動」に立ち上がろうではありませんか。

秋 鹿  博