原爆の日
2004.8.16

 広島の平和記念公園で、59回目の「原爆の日」平和記念式典が開催された。

 秋葉忠利広島市長の平和宣言は、イラク戦争や北朝鮮の厳しい世界情勢の中で、核兵器廃絶と恒久平和への誓いを全世界に向けて新たにした。
 秋葉市長のメッセージは、その人類愛に満ち溢れた格調の高さと、アメリカ及び北朝鮮を牽制した勇気ある発言において、平和運動の歴史に残る名スピーチであったと思う。会場の割れるような拍手が、何よりもそれを証明していた。

 それに引き換え、小泉首相の挨拶のお粗末さは目を覆うものであった。原稿の棒読みは勿論、その内容の欠如、そして聞き取り難い気迫のなさは一体どうしてしまったのか、一瞬自分の耳を疑ってしまった。
 少なくとも、秋葉市長の日本政府への「世界の核兵器容認の風潮を正すべきだ」という強い要請に呼応する形で、「私も先頭に立って、世界平和の実現の為にあらゆる外交の機会に訴え続けて行く、広島市民の皆様も是非頑張って欲しい」位のリーダーシップを発揮出来なかったのか残念で仕方ない。

 おそらく、官僚の作文を棒読みしたに過ぎないが、そうであれば歴代の総理と何ら変わりなく、小泉さんらしさはない。そう言えば、最近の総理の言動は完全に色あせて見える。先の参議院選挙の敗北により、国民の支持率が低下して、攻めの小泉さんが守りに入ってしまったようである。

 普通の国ではなく、普通の総理になって、小泉さんの魅力がなくなったと言われても仕方がない。長い間、凋落傾向にあった自民党は、3年前、国民的支持により登場した小泉さんによって息を吹き返した。自民党の反主流派を、「抵抗勢力」と決めつけ、「自民党をぶっ壊す」と古い体質を改革するその姿勢を、国民は支持したのだ。かく言う私も、その当時自民党県議として、小泉語録を快く受け取っていた一人である。

 しかも、小泉内閣の方向性と政策は、大筋において、そんなに間違っていたとは思えないが、今は試練に立たされている。 
 その一点は、2年前のアメリカ同時多発テロの発生後、ブッシュ大統領と、「テロ撲滅」を誓い合いパートナーとなった。そのテロが引き金となったイラク戦争が、ブッシュ大統領のボタンの掛け違いだとなれば、小泉総理も苦しい立場となる。
 もう一点は、参議院選で敗北に追い込んだ。「年金問題」だ。「右肩上がりの時代」が終った今、戦後60年近くを経て築いたシステムが、制度疲労して大改革が迫られている。誰が担当しても、並大抵のことではないことは確かだ。

 果たして、小泉総理はリーダーシップを回復することが出来るだろうか。そのヒントは、広島市長のスピーチの中にあると私は思う。

 「世界の人々は、力と宗教では救えない」ことを、外交戦略として活用すべきである。唯一の被爆国である日本は、世界のどの国よりも、核廃絶を訴える資格のある国と言うだけでなく、「違いを認め合う宗教感」という精神文化を持つ国である。

 明治政府が、「国家神道」を捧げて、「富国強兵」の国づくりをしたのは、当時の欧米列強の植民地政策の時代、やむを得なかったとは思うが、江戸時代以前はもっと緩やかな宗教感であったと言って良い。神社の中に大日堂があったり、寺院の中に守護神が祭られていたりした。日本人は本来、八百よろずの神と言って、宗教心が無い無宗教ではなく、一つの価値しか認めない絶対神(ゴット)ではないだけだ。

 世界の歴史は、「宗教戦争の歴史」と言って良いほど、ヨーロッパや中東を中心に気の遠くなるような昔から民族と宗教が絡み合って争いを続けてきた。これは、「我が民族が信ずる神だけが正教であり、他は邪教である」と教え、違いを認めようとしなかったからだ。あの無抵抗主義のガンジーは、「宗教では人々を救えない、教育に期待するしかない」といったそうである。

 「20世紀は戦争の世紀」であり、「欧米のキリスト教合理主義の時代」と言われてきた。「21世紀は平和の世紀」とするならば、その中心は、「東洋の精神文化の時代、アジアの時代」である。日本の平和主義、文化外交こそ、世界の恒久平和の基本となることを、秋葉市長の演説を聞きながら確信したのは私だけではないと思う。それには、日本が他の国から尊敬される毅然とした「道の国・日本」であることを示さなければならない。  

秋鹿 博