「一億総批評家と5人の日本人」
2004.6.1

 5月22日は日本と北朝鮮にとって、歴史的な日となるには、あと一押しが足りなかったようです。。
 朝早くから夜遅くまで、小泉総理にとっても長い一日であり、さぞお疲れであったろうと思います。

 2家族5人の帰国を果たしましたが、拉致被害の家族会の評価は厳しく、従って、小泉首相の北朝鮮訪問の成果は、大きく意見が分かれています。
 たしかに、3家族の8人全員の帰国が期待通り実現出来なかったことは事実ではありますが、これは曽我さんの家族の複雑な事情もあり、すべて小泉首相の責任とは言えないとも思われます。
 また、生存が確認されていない10人の安否に、新しい情報が得られなかったことへの、家族の不満が一気に爆発した感じでした。
 それにしても、外交の難しさと世論の厳しさは、小泉さんも計算出来なかったのではないかと思われます。
 両国の政治体制の違いから、国民の世論という点ではまったく対照的で、従って、2人の指導者のプレッシャーは雲泥の差があると思います。
 社会主義の国、北朝鮮では、言論の自由が無いばかりか、国民には都合の悪いことは一切知らせず、金正日総書記を神格化することによって国の運命をすべて一任して、独裁政治を続けているので、拉致の問題もまったく国民に知らせていませんから、外からの情報が入らない限り、国民には問題意識すら持ち得ないと思われます。
 これに対し日本のマスコミは、かつての軍国主義への反動から、戦後は「報道の自由」の名の元に著しく発達し、民主主義の発展に大きく寄与してきました。
 しかし、昨今は行き過ぎた情報やプライバシーへの侵害など、報道モラルの低下が指摘され、その反省が求められています。
 特に、テレビの映像技術の商業化が、度々公序良俗を乱し、国民の世論を反映するどころか世論を形成して、時には、国民の世論を扇動することもなしとしません。
 このような状況が長く続く中で、国民もマスコミ報道に慣らされ、「一億総評論家」と言われるように、その場その場の無責任な言動を、マスコミに利用されることもしばしばです。
 今回の小泉総理の北朝鮮への報道に関しても、拉致被害者の心情に注意は払われたものの、そのような姿勢を強く感じ、本当に残念に思いました。
 おそらく、小泉総理が2回に渡り北朝鮮を訪問しなかったなら、拉致問題そのものを北朝鮮が認めず、少なくとも3家族10人の帰国は実現しなかったと思います。
 何せ、社会主義独裁国の北朝鮮ですから、一筋縄ではいかないのが事実で、根気強く交渉して行く以外にないのではないでしょうか。

 それより今回の件で、私は5人の真の日本人がいたことを強く感じました。
 
 その5人とは、蓮池さん夫婦、地村さん夫婦、それに曽我ひとみさんです。
 記者会見での5人の発言は、自分の家族のみでなく、他の家族への気遣いをされていました。特に蓮池さん、地村さんは自分の子供たちだけが帰国し、曽我さんの家族が残ったため、曽我さんへの心配りで手放しで喜べないようでした。
 一方、曽我さんは、夫のジェンキンスさんの特殊な事情で、家族が一緒に帰れなかったことは残念ではあるが、蓮池さん、地村さんには、その事への心配りはしないで素直に喜んで下さいと、心温まる光景でした。
 私はこのとき、この30年近く苦労してきたこの5人の方々の心配りこそ、「本来の日本人の姿」、かつての日本人の、他の人への思いやりの心を持っているのではないかと思えたのです。
 それに比べ、自分の家族のことだけに終始して、他人を非難したり、自分の立場だけに固執する役人や政治家は、かつての日本人の良さ、道徳を完全に失ってしまったのではないか、と思えてなりません。
 そして、個人の幸福の為に国家があることは間違いないけれども、その個人の幸せの為には国家がしっかりと機能しなくてはならないことも、国民の一人ひとりが考えなければならないことを、強く感じるのは私だけではないと思います。
 そして、批判や批評をしているだけでは、国家はもとより、個人の利益にも結びついてこないことを知るべきであります。
 その為には、国家の存在は人道支援のような優しさだけでなく、物事の筋を通した道義を重んじて行かなければ、真の民主主義を貫くことは出来ません。
 とかく最近は、民主主義の都合の良いところだけを取り出して権利を主張する「つまみ食い」が目立ちます。
 その義務と責任を果たしてこそ、国家も社会も成り立ち、個人の幸せもあることを、もう一度再確認をして、“一億総評論家”にならないように改め直して行きたいものです。