「桜の潔さに思う」
2005.04.12

 日本列島は今、桜前線におおわれ、花見のオンパレード。
 神社・仏閣はもとより、市民公園のや河川のつつみなど、どこへ行っても桜の見えない地域はないと言っても良いのでは。

 それにしても、なぜ日本人はこの桜の花が好きなんだろう。
花が美しいから、香りが良いから、そうだろうか。決してそれだけではないと思う。

 作家の太宰治が、「富士山には月見草が良く似合う」と言ったそうですが、富士山に一番似合うのは、何と言ったって桜!桜ですよね。
 「富士に桜」そうだ!これは日本だ。日本人は、「富士山と桜の花が一番好きなんだ。」 
それはなぜか、難しい理屈はいらない。日本人だからだ。屁理屈のようだけれど、間違ってはいないようだ。
 
 だけど、それだけではなさそうだ。本当の理由は、「潔い」からだ。
花の命が短くて、パッと咲いてパッと散る、美しくて悲しいからだ。
もちろん寿命の長い河津桜のような種類もあるけれど、日本人の好みは、やはり豪華絢爛のソメイヨシノのはかない美しさにあるのではないか。

 美しく開花したその瞬間から、散る営みを始める宿命。
 この潔さが武士道に通ずる、難しく言えば、それこそが日本人の精神文化ではないのかと思ったりする。

 特に、富士山本宮浅間大社の大鳥居から富士山頂を仰ぐ「三点セット」は絶景で、息をのむ美しさだ。
 その「日本の美」に何ら異議をはさむ余地は全くないのだが、ちょっと待てよ、と持ち前のあまのじゃくが頭をもたげて一つの疑問が涌いてきた。
 我ながら本当に困ったものなのだが。

 その疑問とは、いつ頃からこんなに桜が植えられたのか、また昔からこんなにも日本人に愛されてきたのかということ。
 そして、この日本人の好む「潔さ」を逆手に取って、日本の若者たちを戦争にかり出してこなかったか、過去の軍国主義が利用してなかったかと。
 
 戦後60周年を迎えて、憲法改正が浮上している今、お花見が楽しめる現在の平和への感謝の気持ちをまず大事にしたい。
 そのうえで平和が未来へと継続していくためには何が大切なのかを、何をすべきなのかを、ひとりひとりが、考えていければいいのではないでしょうか。
 過去の「日本」を見つめ直し、未来の平和ために、改めて考える機会なのかもしれない。
 
 時代に合わせてかえていくこと、かわらないこと。かえてはいけないこと。本質を見ること。見抜くこと。
 
 散る桜を見ながら、物思いにふけってみた。

                                  秋鹿 博