改革、改革と叫ばれていますが、何よりも大切なことは、どこをどのように改革するか、ということであり、今より悪くなるようでは、むしろ変えない方が良いということになります。
一番困るのは、教育の方針がころころ変わることです。
教育は百年の大計と言われているように、一貫した目標がなければいけないのですが、戦後の教育は、戦前にあった「世のため、人のため」という、人づくりの目標が曖昧になり、個人主義的な目標に変わってきました。
とかく文部省や教育者にその矛先がむけられていますが、私はそればかりではなく、社会全体が価値観が不安定になり、事件や問題が起きると大騒ぎして、流れを変えてしまうのです。
それにしても困ったことは、「ゆとり教育」に切り替えたと思ったら、またぐらぐらして方向が変わろうとしていることです。
かつて、森繁久弥の主演で「七人の孫」というテレビドラマがありました。
この主題歌の一節に、「どんなに時代が変わろうと、どんなに世界が変わろうと、人の心は変わらない。喜びも悲しみも、今日もみんな生きている。」というのがあります。
いつも思うのは、世の中の混乱する原因は、目的と手段が入れ替わってしまうことです。
例えば、交差点の中にいっぺんに車が入ってしまって身動き出来ない姿に似ています。
この車はこちらへ、こっちの車は向こうに、というように交通整理が必要なのです。
少なくとも、目的や目標を一度決めたらそう簡単に変わってはならないし、その目的を達成するための手段は、時代の流れや市民のニーズによって変わるべきなのではないでしょうか。
昔から、「その国の未来を見るならば青年を見よ!山を見よ!」と言われて来ました。
私は、教育はその国の民族と国家の将来を決定してしまうほど重要な問題ですから、その根幹である基本法は、「不偏・不動」でなくてはならないし、その責任は国にあると思います。
しかし、その目的を達成する為の手段は、全国一律でなくても、地域の特性を生かした裁量権を都道府県や市町村の教育委員会に任せる「大地の教育」であってほしいのです。
特に政治の場合は、本来は国民のための政治が、政党・政派の利益に変わったり、政策が関係団体の既得権に振り回されたりしています。
改革のどこをどのように変えるのか、よく政治を監視して行かないといけません。
あきしか 博
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